メニュー

当サイトについて


創立期のオートクチュールの顧客

ゾラの『ナナ』もまたこうした娼婦のひとりである。浪費に明け暮れるナナは、政治家から銀行家まで、何人もの富豪の財産を食いものにしてのしあがってゆく。彼女の贅沢は、男に贈らせる宝石もさることながら、その豪壮な屋敷である。さる銀行家に建てさせた郊外の屋敷は一万坪という広さを誇り、桑畑までそろっていて気まぐれな田舎趣味を満足させる。かと思うと、別の伯爵に買わせた邸宅は、モンソー公園界隈という当時の一等地に建つ豪邸。館を飾る家具調度は、時代ものの長椅子から豪奢な食器棚、銀器、数々の高価な置物や敷物、壁掛け、花瓶など、すべてに贅を極め、娼婦の神殿ともいうべきベッドには「二万フランもするヴェネチアのレース」がかかっている。二万フランといえば現代に換算してざっと二千万円、すさまじい贅沢である。バルザックの娼婦小説『娼婦の栄光と悲惨』もまた、こうした高級娼婦の桁はずれな贅沢を描いて名高い。美貌の娼婦エステルを囲う銀行家ニュシングンはモデルがロスチャイルド男爵であるだけに、その蕩尽もまたすさまじく、エステルの化粧代だけでも月に一万フラン二千万円にのぼり、贅美を極めた家具調度にくわえ、屋敷に飾る花代も桁はずれで、階段に飾る薔薇だけでも月に三千フラン六百万円を下らない。そうしてやってきたお披露目の日に男爵から贈られた真珠の首飾りは三万フラン六千万円。バルザックやゾラの描く高級娼婦たちの世界は、消費という語感を超えているが、創立期のオートクチュールの顧客になったのは、まさにこれらの高級娼婦たちだった。

本物のおしゃれ哲学があってこそ輝くもの

いかにも「ケリーです」という顔でイミテーションのバッグを持っていたとき、もし本物のケリーバッグを持った女性と出逢ったら、どう感じるでしょう。きっと相手のケリーバッグに圧倒されて、心も体も引いてしまうでしょう。見栄をはってコピー商品を持ったばかりに、ビクビクオドオドしてしまう。それなら、そんなものは持つことをきっぱりやめたほうがいいに決まっています。たとえノー・ブランド、ノー・マークでも、自分が堂々としていられるものを持つほうがずっと美しいのです。ただし例外もあります。ミラネーゼたちが、夏のバカンス時に、すぐにイミテーションとわかるロゴ入りのTシャツやアクセサリーをわざと身に付け、それを楽しむ場合です。けれどイミテーションはあくまでもイミテーション。本物のおしゃれ哲学があってこそ輝くものなのです。

カジュアルウェアを分類して考える

アメリカの何人かの友人に尋ねたことがあるのだが、カジュアルウェアを分類して考えたことはないという。だが、彼らのカジュアルの装いには、明らかに筋が通っている。ランチへ行くときはそれなりに、ショッピングに行くときは、また違う。夕涼みに行くときに浴衣を羽織るような感覚が、アメリカ人のどこかにあるのだ。どこに何を着ていくかをよく知っている。夏のイタリアの観光地を訪れるアメリカ人のパッケージツアーの観光客は、大半がバーミューダパンツにニットのシャツ姿だ。初めて彼らを目撃したとき、私は、彼らの服装が乱れていると思い込み、それをある週刊誌に書いた。だがバーミューダパンツはアメリカ生まれで、ニットのシャツは、彼らがリゾート地で身につけるものなのだ。彼らの服装が、とりたてて間違っているとはいえないことに後々気がついた。日本人の短パン姿も、ヨーロッパの観光地でよく見かける。今年のミラノでは、短パンとスニーカー、デザイナーのロゴ入りのTシャツを身につけた日本人を何人か見た。ただアメリカ人と日本人の違いは、アメリカ人は夕食時に替え上着とネクタイを締めるが、日本人観光客は、昼と同じようなスタイルの人が多いことだ。アメリカ人は、特別のお洒落ではない、いってみれば「装いの感覚」といったようなものを、確かにもっている。カジュアルスタイルの場合、その「装いの感覚」が大切なのだ。「装いの感覚」をもっていないため、日本人は未だにカジュアルスタイルを理解していないのである。